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大型伝記小説
影響なき天才たち
佐野祭

 松本喜三郎−−その名はあまり知られていない。だが、彼こそは近代医学に大きな金字塔を打ち立て、多くの人を病から救った人類の恩人である。
 一九六五年春−−。
 松戸にある三本松医科大学ではおかしな噂が乱れ飛んでいた。主任教授の杉野森弥三郎にこの頃奇怪な行動が目立つというのである。寝ている患者の枕元によってきてのどちんこを覗こうとしたとか、食堂でうどんを口から入れたり出したりしていたとか、歯科治療中の患者にちょっかいを出そうとしてドリルでやられたとか、その高潔な人格を知るものには信じられない噂である。
 彼の教え子中一番の才女といわれる梅田手児奈助教授は噂の真相を直接杉野森に聞いて確かめようと、彼の研究室にやってきた。
「先生。杉野森先生。梅田です」
 だが、研究室には誰もいる様子はない。おかしいな、表のドアには在室と書いてあったのにとあたりを見回していたとき。不意に紐のようなもので首を絞められた。
 もがき苦しむ手児奈。だが、彼女が驚いたのは首を絞められたことではなく、首を絞めているのが杉野森だということだった。
「せっ、せんせ……やめ……」
 急に首にかかる力が消えた。杉野森を突き飛ばし、手児奈はキッとにらみつけた。
「先生、何をするんですか!」
その目を無視して杉野森はつぶやいた。
「三十二センチ」
 手児奈は頭が爆発しそうになった。
「何が三十二センチですか!!」
「首回り」
 よく見ると紐のようなものは巻尺である。手児奈は頭がいたくなった。何が悲しゅうて恩師にいきなり首回りを測られねばならんのだ。
「先生、どういうことなんですか、説明して下さい!!!」
「君では細すぎる」
 手児奈はますます頭がいたくなった。何が悲しゅうて恩師にいきなり首回りを測られた上不合格にされねばならんのだ。
「先生、何のつもりですか」
 もはや感嘆符をつける気力もなくなった手児奈の顔を杉野森が覗き込んだ。
「君の研究室に、喉の太い学生はいないかね」
「喉の……?」
「うん。できれば神経も図太い方がいい」
 手児奈は杉野森の目をまっすぐに見た。そこにあるのはいつもの研究熱心な杉野森の目である。
「はあ……でも、なぜ」
「うん。君も気がついているだろうが、最近潰瘍や胃ガンの患者が増えているだろう」
「ええ」
「手術してみると胃の内壁がやられているのがわかるが、外からではわかりにくい」
「そうですね」
「直接胃の内壁を見ることができれば早期発見に役立つと思わないか」
「そりゃそうですけど、でもどうやって」
「そのために私が開発したのがこれだ」
 杉野森は一本の管を取り出した。管の先には、妙な機械がついている。
「超小型遠隔操作内壁監視用カメラだ。これで胃の内部を覗けば、診察もより正確になる」
「こんな小さな物で」
「ああ。小型だが、性能は高い。この超小型遠隔操作内壁監視用カメラさえあれば早期発見に大いに役立つに違いない」
「そうですね。でも、この超小型……なんでしたっけ」
「超小型遠隔操作内壁監視用カメラ」
「そう、いくらこの超小型遠隔……この名前長すぎますよ。胃を覗くカメラだから胃カメラでいいじゃないですか」
「そんなイカがメラしたような名前はいやだ」
「まあなんでもいいですけど、やっぱり胃の中を覗くにはいくら胃カメラといっても手術しなければならないんじゃないですか」
「超小型遠隔操作内壁監視用カメラだ。誰が手術で中に入れるといった」
「じゃ、どうやって」
「飲み込むんだ」
 手児奈は唖然とした。
「だって、こんな大きい物」
「君はさっきこんな小さい物と言ったじゃないか」
「カメラとしては小さいと言ったのです。こんな大きな胃カメラ、飲み込めるわけないじゃないですか」
「超小型遠隔操作内壁監視用カメラだっちゅうに。だいたい飲んでもいないうちから飲み込めないかどうかなんでわかる」
「そんなこと言ったって。先生これ飲み込んでみたんですか」
「いや」
 杉野森は恥ずかしそうに下を向いた。
「実は私も何度も挑戦してみたんだが、ついにできなかった」
「そうでしょう。できっこないですよ」
「いや、理論的には飲み込めることが分かっている。要は、先入観にとらわれなければ大丈夫の筈なんだ」
「そうですかあ」
「そういうわけなんだ」
 何がそういうわけなんだか思い出すのにしばらくかかった手児奈であった。
「つまり、喉が太くて神経も太い人物にこの胃カメラを飲み込んで欲しい、というわけですね」
「超小型遠隔操作内壁監視用カメラだといってるだろう。心当たりはないかね」
 手児奈が思いだしたのが研究室の松本喜三郎という学生である。

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