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大型取引小説
支払う時
佐野祭

「二百五十円になります」
 いつものコンビニ。アルバイトの女性が後ろの棚から煙草を取り出して言った。喜三郎が財布から千円札を取り出し、店員に渡そうとしたときのことである。
「ポキン」
 暗黙の了解の壊れる音がした。
 喜三郎は考えた。
(もしこの千円札を先に渡して、この店員が煙草を渡さなかったらどうなるんだろう)
 そのとき、店員の梅田手児奈も考えていた。
(もしこの煙草を先に渡して、この客が千円札を渡さなかったらどうなるんだろう)

 札を受け取ろうとする手児奈の指をかわすように、喜三郎は千円札を引き戻した。そして、先に渡せと言わんばかりにカウンターの上の煙草を指さした。
 手児奈は煙草を押さえてかぶりを振った。そして、手を差し出して手のひらを上に向けた。
 喜三郎はその手を無視するかのように煙草を指した。手児奈はなおも手を伸ばす。その手をかいくぐって喜三郎の手が煙草をつかんだかに見えた。が、その手は手児奈に払いのけられた。喜三郎の顔が険しくなった。
 睨み合いが続いた。
 どのくらいその状態で止まっていただろうか。喜三郎に変化があった。
 千円札を手児奈の方に差し出した。そして、もう一方の手で手児奈の持つ煙草を指さし、その指を自分に向けた。交換だ、と言っているのだろうか。
 手児奈の顔に疑念が表れた。
 喜三郎は同じ動作を繰り返し、疑いをとくかのように大きくうなずいた。
 煙草を押さえていた手児奈の手は、おずおずと喜三郎の方に差し出された。差し出しつつも決して煙草をつかむ力は弱まる気配を見せなかった。そのまま煙草は喜三郎に渡されるかに見えたが、その手はあるところで止まった。そして千円札に向けられたまま離れなかった手児奈の目が、喜三郎の顔を伺った。そしてその目は再び千円札に向けられた。
 喜三郎はその千円札を手児奈の目の前に差し出し、手児奈の顔をじっと見た。
 手児奈もまた、その顔を見返した。
 二人のもう一方の手が少しずつ伸びてきた。手児奈の手は千円札に、喜三郎の手は煙草に。少しずつ、慎重に、お互いの目を見据えたまま。
 空気が動いた。
 喜三郎の手は煙草を、手児奈の手は千円札をつかんだ。しかし、お互いに押さえた手を離すことはなかった。
 膠着状態が続いた。
 そのまま手を離せば楽になったかも知れない。しかし、二人は決して譲り合おうとしたなかった。
 そのときである。
 喜三郎がぽつりと言った。
「お釣り」
 手児奈の顔にとまどいが表れた。目はしきりに煙草と千円札と喜三郎とレジの中の硬貨を行き来した。
 どのくらいその目はさまよっていただろう。やがて手児奈の目はただ一点、喜三郎に向けられた。喜三郎が差し出している千円札を、手児奈はゆっくりと押し戻した。同時にもう一方の手では押さえつけた煙草を引き寄せた。
 喜三郎にもその意図は通じたのか、素直に煙草を離し千円札を引き寄せた。
 手児奈はレジの中から五百円玉一枚と百円玉二枚、五十円玉一枚を取り出して煙草の上に乗せた。そして、喜三郎の顔を見てうなずいた。
 再び。
 喜三郎が千円札を差し出す。手児奈がお釣りを乗せた煙草を差し出す。二人の手がお互いの支配下にある《もの》に伸びる。その支配は緩やかに交錯し、……ある瞬間、喜三郎の千円札は手児奈の《もの》になる。手児奈の煙草とお釣りは喜三郎の《もの》になる。そしてそれはほぼ同時だった。……喜三郎が千円札から手を離すのと、手児奈が煙草から手を離すのと。
 喜三郎は煙草をポケットに入れる。その顔からはそれまでの緊張は抜けている、というよりむしろ脱力している。しかしまだやることは残っている。お釣りを小銭入れに入れるまで、喜三郎は最後の緊張は保っていた。
 それは手児奈も同じだった。千円札をレジに入れ終わり、初めて手児奈の目からぎらぎらした輝きが抜けた。
 しばらく二人は放心していた。
 永遠にその時が続くかと思われた。しかし、店内には次の客が待っているのだ。
 手児奈はレシートを渡した。
 喜三郎はレシートを捨てた。

     [完]




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