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 あと一時間ほどで始まると聞いて、喜三郎は教えられたとおりに階段を上って法廷に向かった。
 傍聴席には喜三郎を含め三人しかいなかった。そのうちの一人は八十過ぎたと思われるおばあさんだ。
(この人は勝訴の人ではないだろう)すでにこの裁判には勝訴の人がいるのではないかということが心配だったのだが、おばあさんが法廷の玄関まで駆け出し勝訴の垂れ幕を掲げるのはまだ見たことがなかった。少なくとも現役の勝訴の人ではあるまい。
 もう一人は若い男だった。こいつが勝訴の人ではあるまいかと手元をよく見たが、特にそれらしき垂れ幕も垂れ幕が入るような鞄も持っていない。
 どうやら他に勝訴の人はいなそうである。喜三郎は安心して、常に持ち歩いている勝訴の垂れ幕を取り出した。
 垂れ幕をチェックしていて喜三郎はしまったと思った。まさか今日チャンスがあるとは思わなかったから、「不当判決」の垂れ幕を持ってこなかったのだ。これでは判決の結果によっては垂れ幕の使いようがない。
 喜三郎は自分のうかつさを悔いたが、やがて気がついた。なんだ。別に原告か被告かどっちかが勝訴すればいいんだ。
 そんなことを考えているうちに廷吏が登場し、裁判官の指示に従わないときは退廷を命ずるうんぬんと説明を始めた。そして全員が起立し、裁判官が入廷した。
 裁判官は着席を促し、言った。
「それでは判決を言い渡します。被告は原告に対し、十万円を支払え」
 その言葉を聞き終わるや否や喜三郎は法廷を飛び出し、廊下を疾走し階段を駆け降り、裁判所の玄関を抜けて垂れ幕をかざした。
「勝訴」
 喜三郎の胸に感慨がよぎった。ついに自分は勝訴の人になったのだ。もちろん見守る支援者は誰もおらず、ささやかなものではある。でも最初は誰でもそうだ。今日のこの法廷が、勝訴の人としての第一歩になるのだ。
 そんな思いを太い声が破った。
「膝が足りない」
 喜三郎は振り向いた。
「あなたは」
 そこには長身にテンガロンハットをかぶり、黒のタキシードに足元には運動靴の男が立っていた。
「私の名は」垂れ幕が宙を舞った。「勝訴の人、杉野森弥三郎」
 男が広げた垂れ幕には墨黒々と杉野森弥三郎と染め抜かれていた。
 こののち喜三郎は杉野森の元で修行を積み、やがて勝訴王松本喜三郎と称えられるようになるようになるのですが、そのお話はまたの機会に。
     [完]




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