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大型近未来小説「手」
第1回 水泳には手がいる

 そして五年。
(風がここちよい季節になったな……)弥三郎は右第一手で車の窓を明けながら 左第三手でカーラジオのスイッチを入れた。名前の思い出せないジャズのスタン ダード・ナンバーが聞こえてくる。左第一手でサンドイッチをつまむ。『千手観 音くん』(喜三郎の開発した義手の商品名)が予想通りの売れ行きで、この頃ま ともに食事もとってない。両第二手に握ったハンドルをゆるやかに左にきる。向 こうに全日本水泳大会の会場、都営プールが見えてきた。
 スタンドへの階段を昇ると、弥三郎に向かって八本の手を振っている若い営業 部の同僚がいた。
「杉野森さん、こっちこっち」
 そんなに大きな声で呼ばなくてもわかるのに、と苦笑いしながら弥三郎は隣に 腰を降ろした。
「しかし何でいまさら市場調査なんてしなきゃなんないんだ」
「やっぱ最近ちょっと売れ行きが鈍ってますからね」
「それはそうだろ。今や国民一人当り平均六.三本の割で『千手観音くん』が普 及してるんだから」
「だからこそ新しいニーズを開拓しなきゃなんないんですよ。そのためにも現在 どのように使われているのか、しっかり知っておかないとね」
 若い同僚のはりきり方をはぐらかすように弥三郎はプールに目をやった。
「バタフライね……何百メートルだ」
「これ、クロールですよ」
「なんだ、こう腕が多くっちゃなんだかわからんな」
「ほらよく見てごらんなさい、ドルフィンキックじゃないでしょう」
「ほんとだ……やあ、日本新記録だ」
「なんといっても腕の数が四倍ですからね」
「次は何だ」
「えーっとね、平泳ぎですね。これは期待できますよ」
「お、始まったな、さすがに速い速い……は……沈んじゃったよ」
「……どうやら腕がからんじゃんたようですね」

      (続く)

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