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 手児奈がお茶を喜三郎の机に持って来ると、喜三郎は難しい顔をして考え込んでいる。そっとお茶を置いて帰ろうとすると、喜三郎が「手児奈君」と呟いた。
「我々は重大な考え違いをしていたのではないだろうか」
「と、いいますと」
「あれが犯人を示した物かどうかということだよ。死に直面した人間が一番気にするのが、果して犯人の名前だろうか。そんなことはあるまい。まず真っ先に考えるのは、家族のことじゃないだろうか」
「と、いいますと」
「あれは家族にあてた遺書だ」
「あの、なんで遺書に『隣の家に囲いが出来たってね』なんて書かなきゃなんないんですか」
「まず身近な話題から入ろうとしたんだろう」
「被害者の家はアパートです。隣に囲いなんかありません」
「あるいはこういうことも考えられる。被害者は落語家志望だった。死の直前まで稽古を続け、倒れながらも死ぬまで落語を忘れなかった」
「なんで商社員がいきなり落語家になっちゃうんですか」
「心に秘めたものがあったのかも知れない」
「それにしたって落語家だってこんな古い話もうしませんよ」
「ではこういうのはどうだ。ガイシャは実は秘密組織のメンバーだった。やっとこさ対立組織のアジトを見つけたが、アジトにはいるには合言葉が必要だったので、死ぬ前に組織のメンバーに伝えようとした。『隣の家に囲いが出来たってね』『魚肉ソーセージ』ってな具合いに」
「被害者が秘密組織のメンバーだという話はまったくでてませんが」
「だから秘密組織なんじゃないか」
「だって、こんなふうにはっきり書くちゃったら、合言葉を変えるに決まってるじゃないですか」
「そうか、こういうことも考えられるな。君、この隣の家の囲いというのが何を意味するか分かるか」
「というと」
「囲いといえば壁。壁といえばベルリン。つまり、隣の家というのは日本の隣の朝鮮半島のことで、壁というのは韓国と北朝鮮の間の板門店のことだ。ベルリンの壁は崩れたというのに、朝鮮半島の壁はまだ残っている。ガイシャの言葉はそれを嘆いていたんだ」
「だって、何もいま壁ができた訳じゃないですよ」
 喜三郎は黙り込んで、ゆっくりお茶を飲み干した。手児奈は空になった茶碗を盆にのせて、給湯室に運ぼうとした。そのとき、背中で喜三郎が呟いた。
「もしかしてガイシャは、書きたいから書いたんじゃないだろうか」
 手児奈はそんな馬鹿なといおうとして、盆を置いて考え込んでしまった。この説だけは反論のしようがないのである。
「そうだ。そうに違いない。あれはガイシャの魂の叫びだったんだ。うむ。いやあ、これで事件もやっと解決だ。手児奈君もいろいろご苦労だった。今回はなかなか骨のある事件だったな」
 嬉しそうな喜三郎を見ていると、どうしてもまだ犯人は捕まってないよとは言えない手児奈だった。

     [完]




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