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大型冒険小説
若き日の約束
佐野祭
喜三郎は流氷のかけらをグラスに入れる。ポケットからウォトカの小瓶を出し、グラスに注ぐ。
「一度これがやってみたかったんだ」
そしてかたわらで寝そべっている弥三郎の方を振り向いて声をかけた。
「おい、お前も飲むか」
「アウ」
弥三郎はそんなことは興味がなさそうに氷の上に寝そべっている。
「うまいぞ」
「アウ」
弥三郎は耳もかさずに流氷から身を乗り出して魚をさがす。
「やっぱり飲まないか。そりゃ、お前トドだもんな」
喜三郎はオホーツクの太陽にグラスを差し出して、一人で乾杯する。
喜三郎の父がインド洋沖で消息を絶ったのもちょうど今のような真冬だった。
家には父の友人、新聞記者、親戚が駆けつけた。
「やっぱり無理だったんだよ」叔父がつぶやいた。
「パリ−東京ボート横断なんて」
「計画に無理があったということですか」新聞記者が言った。
「ま、そもそもが無茶だったということだわな」父の冒険仲間が答えた。
喜三郎は黙って叔母のいれてくれたお茶を飲み干した。違う。父は決して無茶なことはしない。今度だって事前に入念な準備を重ね、なにもそこまでと思うくらいにテストを繰り返した。
「おやじみたいになるなよ、喜三郎」叔父が言った。
喜三郎はやにわに立ち上がった。言いたいことは山ほどあった。が、言葉は喜三郎の舌の上で空回りをし、やっとの思いで言葉を吐き出した。
「俺がおやじの意志を継いでやる」ぽかんとする客達の中、喜三郎はしゃべり続けた。「おやじに代わってパリ−東京ボート横断、成し遂げてやる」
みな唖然とした顔で喜三郎を見上げていたが、叔父が口を動かした。
「そんなこといったって、お前、ボート乗れないじゃないか」
喜三郎はむっとした。
「なら歩いて行ってやる!」
「弥三郎、もうすぐ稚内だぜ」
「アウ」
一人と一頭は流氷の上を南へと歩いてゆく。
「しかし、ほんとにここ海の上とは思えないよな。流氷がこう一面に続いていると」
「アウ」
父の遺体は見つからなかった。
喜三郎は叔父の覚めた目を忘れなかった。
「ばか。間に海があるじゃねえか」
しかし、喜三郎には勝算があった。
流氷。
冬になると、オホーツクは流氷の季節だ。流氷の上を歩いて行けば、大陸から日本に歩いてくることも不可能ではない。
喜三郎はすぐにでも冒険の旅に発ちたかったが、まずなによりも先立つ物が必要だった。道路工事のアルバイトをしながら金をため、休みの時にはドイツ、ポーランド、ソビエトの地理の資料を集めてまわった。
父の遭難から十年、喜三郎はパリに渡った。
見渡す限りの氷の世界に、一点の緑が見える。
「海岸だ、弥三郎」
緑の点はだんだん大きくなる。徐々に常緑樹の林が姿を現してゆく。
そしてついに喜三郎の二本の足は、海岸線の大地をしっかりと踏みしめた。
「アウ」
「弥三郎、ここが北海道だぜ」
「アウ」
「じゃあな。サハリンからこっち、お前と一緒で楽しかったよ」
「アウ」
「俺はこれから南に行く。この辺は魚が多いから、お前も苦労しないよ」
「アウ」
喜三郎は歩き出す。
稚内の町を抜け、南へ、南へ。
喜三郎は歩く、歩く。
名寄、旭川、札幌。
喜三郎は歩く、歩く。
小樽、倶知安、長万部。
夕暮れの函館の町。津軽の海を眺めながら喜三郎の胸にはやっとここまできたという安心感と充足感が沁みこんでくる。が、そのとき、
(あっ……)
喜三郎はしょっている荷物を取り落とした。その場にうずくまり、拳を握りしめて泣いた。うつむいて、声を押し殺して泣いた。
青函トンネルは歩いては渡れない。
[完]
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