大型営業小説

電話口の向こうで

佐野祭


 はじめのうちは、なにも鳴ってないのに携帯電話を取り出していきなりしゃべりだす人を見ると違和感があったものである。マナーモードにする人が増えてきて、それもごく当たり前の光景になった。
 だからそのとき、電車の中で隣の席の男がいきなりしゃべりだしても特になにも思わなかった。
「はい、松本です。……あどうも、いつもお世話になっております。先日はどうもありがとうございました。……いえいえ、とんでもありません。またよろしくお願いします。
 はい? ……はい。……はい。……ご注文は三十個でしたよね。……はい。……力道山が。……調べてこちらからご連絡差し上げます。
……はい。……そうなんです。あそこは最初ドイツ製を使ってたんですけど、もうピョンピョンはねちゃって大変で。
 今度のはすごいですよ。なにしろ海上自衛隊で使われてますから。……あとは任天堂ですよね。……ほら、ああいうところって、桐のカス札に書いてあるじゃないですか。……それどうもね、ドイツ製のやつだとうまくつながらないみたいなんですよ。……司馬遼太郎ですからね。
 で、16ミリ28ミリ32ミリとあるんですけど、……ニュース23に出てる。草野満代ですか? ……ああ、小倉弘子。……じゃあ、28ミリでOKですね。このタイプはドイツ製にはないんですよ」
 何の話をしているのか、私は妙に知りたくなった。男がどこぞの会社の営業でお客さんの問合せに答えている、くらいはわかるのだが。
「はい?……そうそう。これは昔愛知県図書館さんに納めさせてもらったものなんです。……ええ、この粘りがドイツ製だとうまくでないみたいで。これがまあふわふわふわふわして気持ちいいのなんのって。……油ですね、それは。油ですよ。……よくドイツ製でそうなりますよ。荒俣宏も書いてましたよ。
……それはのりしろが足りないんだと思います。……唐招提寺がそうだったんです。……ドイツ製とうちのではのりしろの位置が逆みたいなんですよ。やっぱあれって文化の違いですかね。
 ええ。……人によって好みが違うんでなんとも言えないんですが、昔秋田県大会で優勝したそうですよ。……すごいでしょ。……決勝の相手がドイツ製だったんですけどね。
 亀です。……そう、一番大きいのだとそのくらいですね。……ああ、それはドイツ製のやつでしょ。……いえ、司馬遼太郎ですね。
……いえいえ、とんでもありません。……ではまたこちらからご連絡差し上げます。……いえこちらこそ。……失礼します」
 男は電話を切ると無表情になった。
 私はとっても何の話だか聞いてみたかったのだが、さすがに見ず知らずの人には聞けなかった。まあいい。とりあえずドイツ製より優れていることはわかったのだし。

[完]


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