大型五輪小説

北緯三十六度

佐野祭


 長野冬季オリンピックから一年……。
 世界はオリンピック招致を巡るIOC委員過剰接待疑惑に揺れていた。
 今日もニュースではIOC委員の誰が辞めたということが報道されている。それを見ながら松本喜三郎はあの苦しい日々を思い出していた。
(そんなもんじゃない……そんなもんじゃないんだ)

 松本喜三郎は招致委員として、冬季五輪立候補のためIOCを訪れていた。
「……ていうわけで、風光明媚で環境にも恵まれた我が長野をぜひ、1998年冬季オリンピック開催地にとお願いする次第であります」
 言い終えて喜三郎は委員たちの顔を見渡した。よし。いい感触だ。
「あー長野というのは日本の真ん中くらいにあるわけだね」
 委員の一人が質問ともなく尋ねた。喜三郎はにっこりと答えた。
「はい。お手元の資料の三ページ目に地図がございますが、ほぼ日本の中央に位置しております」
 年配の委員が地図で大きく「★NAGANO」と書かれた地点をしげしげと眺めていた。そして、地図の中で隣に位置する韓国に目をやった。そして、「★NAGANO」を指で押さえた。その指をまっすぐ左に滑らした。そしてぽつりとつぶやいた。
「これってソウルより南じゃないかなあ」
 委員たちはざわめいた。
「そんなことないでしょう。だってソウルは夏季オリンピックを開いたところよ」
「いや、でもほら」
「あ、ほんとだ」
「それってヨーロッパでいうとどの辺なんだ。世界地図はあるかね」
 世界地図を広げて委員たちは喜三郎の資料と突き合わせた。世界地図には東京や大阪の位置は載っているが長野は載っていないのだ。
「ナガノはこの辺、と。北緯三十六度ぐらいか」
「ヨーロッパでいうとだ。ちょっと待て、ヨーロッパにそんなところほとんどないぞ」
「うん、アルジェと同じくらいだ」
「アルジェって、アルジェリアの」
「うん」
 座長格の委員が喜三郎に尋ねた。
「あー、ホントにこんなところで冬季オリンピックができるのかね。2000年の夏季五輪の間違いでは」
「いえ」喜三郎はあわてた。「冬の長野は雪国でして、国内から多くのスキーヤーが集まってまして」
「そんな、アルジェで冬季五輪ができるものですか」
「いやそれはアルジェではできませんが、同じ緯度でも長野はもっと寒いのです。ご承知のとおり、日本では札幌で1970年に冬季オリンピックを開いた実績がございまして」
「サッポロは私も行ったぞ」あから顔の委員が上機嫌そうに言った。「ニッポンに三つだか四つだか大きい島があって、サッポロのある島だけ寒くて、雪の人形を作ってフェスティバルをするのだ」
「でもナガノはトウキョウのある島だよ」別の委員が地図を指差した。「私も二月にトウキョウに行ったことがあるが、雪なぞどこにもなかったぞ」
「いえ、ですから東京は平野にございまして暖かいのですが、長野は山に囲まれておりまして、この島の中でも寒いのです」
「まあ、立候補するというのだから受け付けるがね」座長格の委員が資料をファイルにしまった。「他にも立候補地はたくさんあるのだから、期待はしないでくれたまえ」

「なんで地図にソウルまで載せちゃうんだよ」長野に戻って牒た喜三郎は頭を抱えていた。
「仕方ないじゃないですか。日本は斜めに細長いんだから、韓国まで地図に入っちゃいますよ」招致委員会の職員杉野森弥三郎が答える。
「とにかく、口でいくら寒いんだと言ったってわかりっこない。実際に連中を冬の長野に連れてきて、寒さを肌で実感してもらわなければ」
「そうですよ、来てみればわかりますって」
「でもですよ」事務員の梅田手児奈が言った。「アルジェほどではないにしろ、長野はレイクプラシッドとかに比べれば確かに暖かい方ですよ」
「そうだなあ」喜三郎はしばらく考えていたがぼつりとつぶやいた。「一応手は打っとくか」

「ないすとぅみーちゅー、ないすとぅみーちゅー」喜三郎が愛想を振りまく。
 彼はいま来日したIOC委員を出迎えに成田空港に来ているのだ。
「いやあ、日本は暖かいなあ」
「そりゃあもうここにはハワイや東南アジアから一日何便も来ますから。空港はいつもぽかぽかです。さあ、お車へどうぞ。長野はここと違って寒いですから十分暖かくしてくださいね」
 委員たちを車に載せると、自分が車に乗る前に喜三郎は電話をかけた。
「もしもし。松本だが」
「あ、杉野森です」
「いま成田だ。これからそっちに向かう。どうだ長野の天気は」
「はあ。今日の長野は平年よりかなり……」
 その元気のない声から最後まで聞かなくても中身は知れた。
「ぬくいです」
 喜三郎は舌打ちした。
「そうか。じゃ、打合せ通り頼む」

「ここが長野を代表する寺院、善光寺です」
 助手席から後ろを振り向いて喜三郎が説明した。
「じゃあ、せっかくですから降りて善光寺を見学しましょう」
 喜三郎の車に続いてほかの委員を乗せた車も次々に止まる。
「ブルルルッ、これはけっこう寒いな」
 真っ先に降りた北欧の委員がつぶやく。
「はい、皆さんお集まりください。寒いですからね、暖かい格好してきてくださいよ。ああっあまりそっちの方行かないで。はい、この善光寺は602年に建てられました」
 説明をする喜三郎の横で委員たちは日本の町並みを珍しそうに眺めている。
 街行く人はみな分厚いコートにマフラーをし、ロシアのシャープカのような毛皮の帽子をかぶっている。
 その中に弥三郎と手児奈もいた。
「弥三郎さん、暑いですぅ」
「仕方ないじゃないかよ、いま俺たちは氷点下十度の中にいることになってるんだから」
「あの冷房、ここまで効かないんですか」
「無茶いわないでよ、あの屋外用の冷房を作るのどれだけ苦労したと思ってるの。あの委員がいる辺りの五メートルしか効かないんだよ」
 手児奈が恨めしげに眺める方にはトラックにカモフラージュした巨大な冷却装置があり、IOC委員に絶えず冷気を送りつけていた。
 もちろんコートを着た人々もさくら。長野五輪招致を成功させるべく長野市民が一丸となってがまん大会をしているのである。
「手児奈」
「なんですか」
「汗かくな」
「無理ですぅ、そんなあ……大変です弥三郎さん」
「どうした」
「セーターで歩いてる人がいます」
 手児奈の指す先にはコート姿に混じって一人だけセーターで歩いている男がいる。弥三郎と手児奈はあわててその男のところへとんでった。
「君っ、市の公報を読まなかったのかっ」
「は?何、公報って」
「いま、長野の寒さを世界に知らしめねばならないのです。軽装で出歩いてはいかんのです」
「え?だって、こんなに暖かいし、」
「ええい説明は後だ。手児奈君」
「はいっ」
 手児奈はかばんの中から予備のコートと帽子を取り出した。
「長野オリンピック招致にご協力お願いしまあす」
 弥三郎がすかさず男を押さえ付け、手児奈が帽子をかぶせる。
「なにをするっ」
 男の腕をとりコートを着せる。
「OK。それでこそ寒冷都市長野にふさわしい姿です。ご協力ありがとうございました」
 弥三郎は男と握手した。そのときである。
「オー。ヒーイズクレイジー」
 なにやらIOC委員の一人が何かを指差して叫んでいる。
 ほかの委員に善光寺の説明をしていた喜三郎はその声に振り向いて呆然とした。
 弥三郎と手児奈もその指の示す方向を見た。そこにはセーターを脱いだ半袖シャツ姿の若者が立っていた。
「まさか……」手児奈がつぶやいた。「いくら暖かいと言っても、冬の長野ですよ」
「オリンピック招致反対派か」弥三郎が様子をうかがう。しかし、どうもそれにしてはビラを配ったり演説をしたりする準備もなさそうだ。
「そうか」弥三郎は冷却装置を指差した。「あそこ、ちょうど裏側なんだ」
「どういうことですか」
「委員の側に冷たい空気をひたすら送り込んでるんだ。当然反対側は室外機にあたる部分があって、むちゃくちゃ暑いんだ」
 ほかの委員たちもこの男に気がつき始めた。そして口々に「なんだねあれは」「どうしてあんなやつがいるんだ」と騒ぎ始めた。「いや、これはですね」といったものの後の言葉が続かない喜三郎。
 どうしたものかと辺りを見回す弥三郎の目に、門前の土産物店にバケツがおいてあるのが目に入る。
「よしっ」
 バケツに水をくむと、弥三郎は駆けていって半袖男に頭からかけた。男は何が起こったのかわからないでいる。
「さあご一緒に、マカハンニャハラミタシンギョ」
「なんなんだあんた」
「拝めっ! ギャテイギャテイハラギャテイ、ハラソウギャテイ」
 その成り行きを見ていた喜三郎はIOC委員たちに説明を始めた。
「仏教ではよく修業僧がこのような真冬に薄着で水をかぶるなどの修業をします。これを荒行と言います。このような過酷な修業に耐えることで釈迦のいう悟りの境地に近づけるものと考えられているからです」

 テレビではIOC委員への奨学金や贈り物の中身について詳しく報道している。それを見ながら喜三郎は髪の毛をがりがりとかきむしるのだった。
「こんな、……こんな金でどうにでもなる連中だとわかっていたら、あんな馬鹿な苦労はしなかったのにぃ!」

[完]


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