大型保育小説

子供の情景

佐野祭


 古来「俺の女房を未亡人にしたい」というくらいに、未亡人といえば色っぽいことになっている。
 しかしまあこんなのは所詮、経験の浅い女は面倒くさいでもプロはいやだかといって人妻はいつなんどき亭主が踏みこんでくるかも知れないだったら亭主は死んでるに限るという、男のわがまま以外の何物でもない。第一未亡人が色っぽいといっても、うら若き未亡人を見たことがある奴がそうそういるはずはないのである。未亡人の九十九パーセントまでは婆さんなのだ。てなわけで色っぽい未亡人などは龍やケンタウロスと一緒で想像上の動物に過ぎない。……と、喜三郎も弥三郎も思っていたのだ。梅田手児奈が引っ越してくるまでは。
 手児奈が三つになる息子の太郎を連れて三本松荘に来て一か月。松本喜三郎と杉野森弥三郎は手児奈にとりいろうと、饅頭を差し入れたり煎餅を差し入れたり、まあ彼らが未亡人に対していだく幻想もわからないではないが、饅頭や煎餅でくずれるほど現実の未亡人の貞操はもろくない。しかし彼らは性懲りもなく、こないだは栗まんだったから今度は酒まんにしようと日夜かいがいしく努めていた。
 そんな彼らであるから、太郎の泣き声がびーびーとアパート中に鳴り響き、手児奈の「困ったわ」というため息を聞き逃すはずがない。
「うわーん、だって、ママ約束したじゃんか」
「だから急なお仕事だからしょうがないの。わかる。ママがお仕事に行かなかったら、太郎ちゃんだってご飯食べられないの」
「うわーん、だって、動物園連れてってくれるって」
「だからごめんねっていってるでしょう。また今度連れて行ってあげるから」
「うわーん」
 喜三郎弥三郎はさっそうと現れ、手児奈に声をかけた。
「奥さん。よろしければ、私たちが代わりに行きましょうか」
「うっうっ、あ、饅頭のおじちゃんだ」
「あ、松本さんと杉野森さん……いえ、そんな、いいんですよ」
「遠慮はいりません。他ならぬ太郎くんのためでしたら、そのくらいは」
「いえ、でもほんと、悪いですから……」
 と手児奈が言ったときにはすでに太郎は喜三郎と弥三郎のそばにぴっちりとくっついてにこにこしている。
「はあ、じゃあ、お言葉に甘えて……お願いします」

 ガタゴト揺れる電車の中で、太郎が喜三郎に尋ねた。
「ねえ、饅頭のおじちゃん、歳いくつ」
「二十八だよ」
「なんで?」
 予期もせぬ反応に喜三郎はあわてた。
「へ……だって……二十八年前に生まれたからだよ」
「なんで二十八年前に生まれたの?」
「なんで……って……生まれてから二十八年たったから」
「なんで生まれてから二十八年たったの?」
「いや、だからね、なんていったらいいんだろう……あのね、去年生まれてから二十七年たったから、今年は二十八年たったんだよ」
「ふーん」
 このやりとりを聞いてげらげら笑っていた弥三郎に太郎が言った。
「煎餅のおじちゃん、ぼくねー、二十まで数えられるんだよ」
「ふーん、すごいねえ」
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、にーじゅ」
「わあ、すごいすごい」
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、にーじゅ」
「ああ、すごいすごい」
「煎餅のおじちゃんはいくつまで数えられるの」
「おじちゃん?おじちゃんはもっともっといっぱい数えられるぞ」
「ねえ、数えて」
「……へ?」
「おじちゃんいっぱい数えて」
「……いやでもさ、ほら、おじちゃんが数え始めると終わらないよ」
 途端に太郎は火のついたように泣きだした。
「うわーん、おじちゃん数えてくれなきゃやだ」
「え?だって」
「いいから弥三郎数えろよ」
「数えろったってお前、」
「うわーん」
「わかったよ数えるよ……いいか、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五、……」
「ねえ饅頭のおじちゃん、ここどこ?」
「ここ?ここはえーと、神田だな」
「なんで?」
「なんでって……んー、東京駅の隣だから」
「なんで東京駅の隣なの?」
「だって……東京駅は神田の隣で……だから……」
「なんで?」
「……百三十六、百三十七、百三十八、百三十九、百四十……もうやめていい?」
「うわーん」
「ああ、泣かなくていい、泣かなくていいよ、弥三郎数えろっ」
「百四十一、百四十二、百四十三、……」
 太郎はにこにこしながら弥三郎が数えているのを見ている。喜三郎はほっと胸をなで下ろした。と、思う間もなく太郎が話しかけてきた。
「ねえおじちゃん、ぼくねえ、ダンダンビラ乗ったんだよ。そしたらねえ、ダンダンビラがねえ、ビューンと走ってねえ、こーんなに高く上がったんだよ」
「そう、ふうーん、よかったねえ……ダンダンビラってなんなんだろ」
「そんでね、ケーキ食べて、おうちの中にかぶと虫がいたんだよ」
「そう」
「ケンちゃんがねえ、おーっきなボール持っててねえ、それにみんなで乗ったんだ」
「ふんふん」
「千二百五十六、千二百五十七、千二百五十八、千二百五十九、…………ケンちゃんって誰よ」
「うわーん」
「弥三郎数えろっ」
「千二百六十、千二百六十一、千二百六十二、……」
「ミカちゃんのスカートにねえ、こーんな大きなパンダがついてるんだよ」
「そう……これさっきの話の続きなのかな」
「あ、みてみてみて」
「えっ」
「赤い電車」
「あ。ああ、赤い電車だねえ」
「ねえ、これ赤い電車?」
「ううん、これ、青い電車だよ」
「なんで?」
「ああ……また……あのね、ケンちゃん家の、じゃねえよ、太郎ちゃん家のそばには青い電車しか走ってないでしょ?」
「やだもん。赤いのじゃなきゃやだもん。赤がいいの」
「だって太郎ちゃん、しょうがないじゃん」
「赤がいいの赤がいいの赤がいいの赤がいいの赤がいいの」
「でもね、」
「赤じゃなきゃやだやだやだやだやだ」
「きみきみ」
 喜三郎が振り返ると初老の紳士がしかめ面をして立っている。
「電車の中というのは公共の場なんだから、な」
「は」
「ちゃんと子供を叱るべきときには叱って、静かにさせないと駄目じゃないか」
 喜三郎の張りつめていた糸がぷつんときれた。
「やかましいすっこんでろじじい、高々一時間くらいガキがうるせえからってえらそうな口たたくんじゃねえ、いいかてめえ俺なんかなあ、今日一日ずっとこのガキとつきあわなきゃなんねえんだっ」
「三千五百八十二、三千五百八十三、三千五百八十四、三千五百八十五、……ふう……」
「うわーん」
「弥三郎数えろおっ」
「三千五百八十六、三千五百八十七、三千五百八十八、……」

 夕日の中をとぼとぼと歩く二人の男。回りを元気よく飛び跳ねる子供。
 アパートの前に立っている母親の姿を見つけると、子供は勢いよく駆けていって抱きついた。
「おかえりなさい」
「ママー」
「松本さん、杉野森さん、今日はほんとにどうもありがとうございました。大変だったでしょ」
「いえ。どうってことないっすよ」
「さ、太郎ちゃん、帰りましょ」
「やだ。ぼくもっとおじちゃんと遊ぶんだもーん、遊ぶんだもーん、遊ぶんだもーん」
 その瞬間手児奈の手がささっと空中を三往復して、ビシビシッと鋭い音が太郎のほっぺたから鳴り響いた。
「本当にどうもありがとうございました。では、失礼します」
 太郎の手を引きずって去って行く手児奈の後ろ姿を、喜三郎と弥三郎は呆然と見送っていた。

[完]


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