大型動物小説

熊と山男

佐野祭


 喜三郎が山道を歩いていると向こうに熊の姿が見えた。
 熊には二通りのタイプがある。自分からは攻撃を仕掛けず待ち伏せして相手が来るのを待つタイプと、自分から走って行って相手を倒すタイプである。前者が受動熊で、後者が能動熊だ。
 喜三郎は向こうにいる熊は能動熊に違いないと判断した。このタイプの熊から逃げるのに有効なのは、昔からよく知られている手段であるが、死んだふりである。じっと伏せて息をひそめ、熊の通り過ぎるのを待つわけである。
 幸い熊はまだこちらに気がついていない。喜三郎はすばやく荷物の中から手品用のナイフを取り出した。このナイフは押すと刃の部分が引っ込むようになっている。喜三郎は自分の腹にナイフをあてがった。ちょっと見るとナイフが刺さっているように見える。
 さらに荷物から血糊を取り出す。言うまでもないことだが、山を歩くときはこれらの装備を忘れると命取りになる。血糊をナイフの刺さっているあたりにたらすと、これで誰がどう見ても立派な刺殺死体である。
 念のため顔にメイクをほどこす。死後十二時間といったところだろうか。まあ、普通はここまでやる必要はないのだが、なににつけ喜三郎は慎重な性格である。用心に越したことはない。
 そうして寝ころがって熊の行き過ぎるのを待っていたが、なかなか熊はやってこない。喜三郎はおかしいなと思った。もしかしてあの熊は、能動熊ではなくて受動熊なのではないだろうか。
 受動熊を相手にいつまでも寝っころがっていても、相手だって待ち伏せしているのだからやって来るはずがない。受動熊はとっても辛抱強いのだ。
 受動熊から逃げきる方法は、あまり知られてないことだが、フェイントである。まずゆっくりと歩いて行く。熊はタイミングを見計らって飛びかかって来ようとする。熊がまさに飛び出そうとする一瞬前、全速力で走り出す。
 熊はこちらがゆっくり歩いているつもりで飛びかかって来るが、その時にはこちらはもうその前を走っているのである。受動熊の性格からして、一度のがした相手を追いかけるということはしない。
 喜三郎は立ち上がり、歩き出そうとした。が、その時また疑問が頭をよぎった。もしかしてあの熊は、受動熊のふりをした能動熊ではないだろうか。
 喜三郎は頭が混乱してきた。とにかく、相手が能動熊であれ受動熊であれ、対処できる用意をしなければならない。死んだふりをしながら歩き出さなければならないのだ。
 喜三郎は担架を持ってきてよかったと思った。確かに荷物にはなるが、山に担架を持って行かなかったばかりに命を落とした人をたくさん知っている。備えあれば愁いなしである。
 まず担架を地べたに置き、その上に横たわる。けが人と間違えられないよう、顔に白い布をかぶせる。死体に見えるようにじっと息を殺す。
 そのまま喜三郎は担架を持ち上げて歩き出し、熊が襲って来る寸前にすたこらと走り出した。

[完]


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