ノックの音がした。
松本喜三郎が驚くのも無理はない。ここは公園の広場のどまん中で、何もない場所なのである。無論ドアなどはない。
見るとジャージを着た若い女性がノックするような格好で空中を叩いている。女性の手首が前に振れるたび――つまり、ドアに手があたるたび、ノックの音が聞こえるような気がする。
「はい」思わず喜三郎は返事をした。
「失礼します」女性はノックしていた手を前に差し出し、手首をひねって引き寄せた。「ギギッ」と、ドアが開く音がしたような気がした。
女性は改めて一礼した。
「はじめまして、突然おじゃまして申し訳ありません。私、女優の卵で梅田手児奈といいます」
なるほど、役者だったのか。道理でパントマイムがうまいはずだ。
「実は今度私たちの劇団で公演をやるんです。そこでぜひポスターを張らせて欲しいのですが」
喜三郎はよく理解できなかった。「あの、ポスターを張るって、どこに」
「ここの壁なんかどうでしょう」
手児奈と名乗る女の指さす先には何もない。遠くに公園の植木があるだけである。
「はあ」
喜三郎が曖昧な返事をしている間に、手児奈は腰をかがめ左手をそっと地べたに近づけた。それはまるで袋を置くような姿勢だった。手を丸め、袋の中から何か丸まった物を取り出すような仕草をする。そして輪を作った両手を近づけては離し、近づけては離しを繰り返した。
(筒から輪ゴムをはずしているのか)
喜三郎が興味深げに見守る中、手児奈はその見えない筒をほどき、中空に手を拡げ手のひらを垂直にし左右になぞり始めた。
(なるほど、これは例の壁の演技だな)喜三郎は以前大道芸人がパントマイムをやっていたのを思い出した。なるほど、これも練習の内というわけか。
「練習、大変ですね」
「ええ、そうなんです。だもんでこうやって外回りするのがちょっと息抜きになるんですよ」
というとこれは練習ではないのか。でなければ何なんだ。
「すいません、ちょっとここ押さえててもらえますか」
「えっ?はいはい」
手児奈の声に言われるがままに、思わず喜三郎はその何もない空間を押さえるポーズをした。
手児奈はセロハンテープを切るような手つきを何回か繰り返す。その間喜三郎は押さえるポーズを続けながら妙な気分だった。
別に自分はこの手を向こう側に突き出してもかまわないのだ。壁を突き破ることになるわけか。
喜三郎は軽い気持ちで押さえている手を突き出そうとした、だが……なぜか手は動かない。
「あ、そんなに強く抑えなくても大丈夫ですよ」
手児奈はすっかり貼り終えたようでセロハンテープをかたづける仕草をした。
「どうもありがとうございました。これ、公演のチケットです」
差し出された手には何も握られてはいなかったが、喜三郎は反射的にその無い物を受け取った。
「あの、公演はどこでやるんですか」
「ここです」手児奈はポスターを貼ったあたりの中空を指さした。
「はあ」喜三郎はその何もない空間を眺めていた。すると一瞬「10月23日〜26日 三本松ホール」という字が見えたような気がした。あわてて目をこする。そこには確かに空間しかない。自分の手を見る。手の中にチケットが一瞬見える。
「すごく面白い台本なんですよ。よろしかったらぜひ、来て下さい」
喜三郎は手児奈の目を見た。その熱心そうな輝き、――しかしそれは別に狂信的な輝きではない。
(彼女が演じているのか、それとも――俺が演じているのか)
ここは本当は部屋の中なのではないか。ここにはドアがあり、壁にはポスターが貼ってあるのではないのか。そして俺は――公園にいる演技をしているのではないのか。
「どうもありがとうございました。では、失礼します」
手児奈はお辞儀して見えないドアを開けて帰っていった。
「あ、ちょっと待って」
その時。急にあたりが暗くなり、スポットライトを浴びて一人の男がせり上ってきた。
「待てと申さるるは、あ、拙者のことかあ」
お前は誰なんだと言おうとした喜三郎の口から出たのはこんな言葉だった。
「貴様。何奴」
「あ杉野森」柝がはいる。「弥三郎」
「待ってました」と大向こうから声がかかる。
「こちらにおなごが逃げてきたはず、お主いったいどこへかくまった」
「何おなご。そんなおなごは、あ見たことないぃわいぃなあ」
喜三郎は思いだそうとしていた。こんなときにぴったりの言葉があったはずだ。すべての演技を終わらせる、あの言葉が。そう、あれは……
「いい加減にしなさい」喜三郎は弥三郎をどつく。そして二人で、
「失礼しました」
とお辞儀をして舞台を下りていった。
[完]