大型卒業小説

私はピアノ

佐野祭


 三本松小学校五年三組の教室では、卒業する六年生を送るための『おわかれ会』での合奏について杉野森先生が説明していた。
「まずピアノが二人、だな」杉野森は黒板に楽器の名前を書き出していった。「あとエレクトーンが一人。それから大太鼓と小太鼓、シンバルが一人ずつと。それからブラスバンドに入っている人にはトランペットとトロンボーンをやってもらおう。あとはリコーダーだね」
「先生」手を上げた女子生徒がいた。梅田手児奈である。
「なんだ梅田」
「ピアノは二人だけなんですか」
「ああ、二台しかないからな。さて」杉野森は生徒を見渡した。
「明日のホームルームで役割を決めるから、みんな自分が何をやりたいか考えておくように。もちろん楽器の数は決まってるので、希望者が多い場合は来週演奏してもらってメンバーを決めるから。じゃ、算数の授業を始めよう」

「大変だよ松本ぉ」
 学校からの帰り道。手児奈は同じ五年三組の松本喜三郎と家の方向が一緒なのだった。
「なにが」
「おわかれ会の合奏」
「んー、俺カスタネットとかトライアングルがよかったんだけどな」
「ほんとに五年生かお前は」
「しょーがねーだろ、お前みたいにピアノ習ってるわけじゃないし。手児奈はピアノやるんだろ」
「それが大変なの」
「なにが」
「だってさあ、うちのクラスでピアノ習っているの何人いると思う」
「ええっとお前と、……」喜三郎は一応聞かれたのでしばらく考えるふりをしたが、何も考えてはいなかった。「あと誰よ」
「あと、真奈美と、柴田さんが習ってるんだよ。三人だよ三人。ピアノ二台しかないんだよ」
「ふーん。じゃ、エレクトーンやればいいじゃん」
「だめ、エレクトーンはサッチがやってるもん。それに私エレクトーンなんて触ったことないもん」
「あんなの同じじゃないの。白くて黒くて」
「わかってないなあ」手児奈は喜三郎を軽蔑した目で見た。「キーのタッチが全然違うもん、仕掛けだって違うんだよ。エレクトーンはいろいろスイッチがあるし、足ペダルがあるし」
「ふーん、そうなんだ」
「どうしよう、このままじゃただのリコーダーになっちゃうよ」
「ただのってのはなんだよただのってのは。いいじゃんリコーダーねえ、あれだったら大勢いるから音出さないで吹くまねだけすりゃいいもんな」
「あんたと一緒にしないでよ」
「だって、まだお前がピアノじゃないって決まったわけじゃないじゃない」
「だけどさ……」
 手児奈は真奈美がピアノを習い始めたころのことを思い出した。

 手児奈が小学校二年のときピアノの先生にこんな風に聞かれた。
「ねえ手児奈ちゃん、三本松小だったよね」
「うん」
「黒田真奈美ちゃんて知ってる?」
「まなみ?うん、同じクラスだよ」
「今度真奈美ちゃんもピアノ習うことになったの」
「先生に?」
「うん」
「手児奈幼稚園のときからやってるよ」
「そうね、ほんとはそのくらいから始めたほうがいいかもね。さあ、こないだの曲弾いてご覧なさい」
 個人レッスンなので直接真奈美と顔を合わせる機会はなかったので、お互いがどういうことをしているかはわからなかった。だが発表会の日が来て、手児奈の前が真奈美の番だった。
 こちこちに緊張する手児奈が舞台裏で待つ中、真奈美の演奏が始まった。
(真奈美、私より後から始めたのに難しい曲をやってる……)
 手児奈はますます緊張して、自分の出番では六回間違えた。

「ふーん。真奈美ってお前よりうまいんだ」喜三郎は手児奈が自分でははっきり表現しなかったことをさらっと言ってのけた。
「でも、柴田さんのは聞いたことないんだろ」
「だって、あの子なんでもできるもん。きっとピアノだってうまいよう」
「そうとは限らないじゃん」
「どうしよう、私、リコーダーに回されちゃうよ」
「だからなんなんだよその回されちゃうってのは。いいじゃん、一緒にリコーダーやろうよ」
「やだやだやだ、絶対やだ」
「よくわかんねーなー。よし、それじゃあ」
 といったものの喜三郎は何も考えてなかった。
「それじゃあ?」
「それじゃあ……特訓だ」
「特訓?」

「ただいま……あれ?」
 そんなことがあってしばらくして。手児奈の父が比較的早く会社から帰ってきた。
「あら、おかえり」
 出迎える母に父は不思議そうに聞いた。
「母さん、どうしたの、これ」
「え、なに?」
「ピアノさピアノ。あいつが練習するなんて」
「やだ昼間は週にいっぺんぐらいは弾いてるわよ」
「でも、俺聞いたの一年ぶりくらいだぞ」
「うん、おわかれ会の合奏なんだって」
「え、なんてった?」
「お・わ・か・れ・会・の・合・奏」
「ふーん、であいつがピアノ弾くのか」
「まだ決まってないんだって。それでいま特訓中なんだってさ」
「はー、選ばれるかどうかなんだ」
「え、なんだって?」
「選・ば・れ・る・か・ど・う・か・な・ん・だ。しかしこれ本人の前では言えないけど、ピアノって……」
「ん」
「うるさいもんだな」

 いよいよ楽器を決める日がきた。
「じゃあ、黒田さん柴田さんと梅田さんに順番にピアノを弾いてもらおう。まず、黒田さん」
 杉野森先生が真奈美を呼んだ。
 喜三郎は手児奈の方を見た。手児奈はかちかちに緊張している。
「手児奈お前特訓したんだろ、大丈夫だよ」
「だめ、私絶対緊張するの」
「知ってるか手児奈、手のひらに『人』って字書いて飲み込むまねするとあがらなくなるんだぞ」
「そうなの?やってみる」
 手児奈はしばらく手のひらに書いては飲み書いては飲みしていたが突然「あーっ」と叫んだ。
「なんだよ」
「どうしよう松本、間違えて『入』飲んでた」
「もう、そしたら『出』飲んどけよ、差し引きゼロだよ」
「おーい、松本静かにしろよ、演奏が始まるぞ」
「ほら、俺が怒られちゃったじゃないか」
 黒田真奈美の演奏が始まった。
(やっぱり真奈美ちゃんうまい……)
 手児奈はますます緊張した。手のひらに『出』を書いて飲み込んだ。
(あれ?いま『出』を四回飲んで、『入』を三回飲んでたから、やだ、『出』の方が多くなっちゃった)
 手児奈は『入』を一回飲んだ。
 真奈美の演奏が終わり、柴田の演奏が始まった。柴田の演奏がちゃんと聞こえていたら手児奈はもっとショックを受けていたのだろうが、あいにくもはや手児奈の耳には何も入っていなかった。誰かに袖を引っ張られて手児奈は我に返った。喜三郎だった。
「手児奈、呼んでるよ」
「は、はい」
 ピアノの前に座り、先生の合図がでるかでないかのうちに手児奈は弾き始めた。途中何度が間違えたような気はしたが、何が何だかわからないうちに曲は進んでいった。

「あー、ほっとしたあ」
 学校からの帰り道。手児奈と喜三郎は一緒に帰っていった。
「もう当分ピアノ見たくない」
「じゃあリコーダー」
「もっと見たくない」
「なんなんだよお前は。俺の特訓の成果じゃねえか」
「あんた特訓やれって言っただけでしょ」
 合奏でのピアノ演奏には結局真奈美と手児奈が選ばれたのである。といっても、柴田がうますぎて合奏とは別にソロで弾くことになっただけなのだが。
 でも手児奈にとってはそのようなことはどうでもいいことだった。ピアノに残れれば、理由はなんでも構わなかった。
「よかったあ」
 ほっとする手児奈に合わせて喜三郎もよかったよかったと言った。手児奈がよかったと言ってるんだから多分よかったんだろうと思ったが、もちろん喜三郎には何がよかったのかちっともわからなかった。

[完]


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