大型作家小説

落日の北品川

佐野祭


 人気作家松本喜三郎の名を知らぬ者はない。
 その作風は豪放にして繊細、明朗にして重厚、正統的にして実験的なのだ。若い日から彼は自らの小説に新しい試みを次々と取り入れ、数々の成功をおさめている。
 三本松出版の「小説志ん朝」はその喜三郎の連載を獲得した。編集者の杉野森弥三郎は期待と緊張で胸を弾ませながら第一回の原稿を取りに行った。
 弥三郎が松本邸に入ってゆくと、喜三郎は縁側でのどかに梨をむいていた。
「おう、弥三郎くん、原稿ならできているぞ」
 弥三郎は縁側に腰掛けると、原稿に目をやった。

   落日の北品川(第一回)
       松本喜三郎


「もう冬だな……」
 伊吹和彦はコートの右腕を通し左腕を通し衿を合わせると第一ボタンをはめて第二ボタンをはめて第三ボタンをはめて第四ボタンをはめて第五ボタンをはめた。そして右足を前に出し左足を出し右足を出し左足を出し右足を出し……』

 弥三郎は原稿を四、五枚めくってとばした。

『……玄関にたどりついたので下駄箱の左側の引き戸の取っ手に手を掛けて右に開け、上から二段目の左から三番目の黒い靴の左足側に右手中指を、右足側に右手人差し指を入れて取り出すと土間に置いて手を離し、右足を右靴に入れてそのままの姿勢で下駄箱の右側を開けて靴べらに左手を掛けて取り出し、それを右手に持ちかえて靴べらの先端を右靴のかかとに差し込み、そのまま右足を右靴の中にすべりこませた。……』

 そこまで読んで弥三郎は顔を上げた。
「先生、これは……」
「うむ。読んでの通りだ」
 読んでわからないから聞いてるんだよ、と言いそうになるのを弥三郎はぐっとこらえた。
「で、どういう意図で」
「なんだと。君はこれを読んで私の意図がわからんのかね」
 わかるわけねえだろ、と言いそうになるのを弥三郎はぐっとこらえた。
「いえ、つまりこれは小説における抽象性の排除、ということでしょうか」
 苦し紛れに口からでまかせを言うと喜三郎はにっこりうなずいた。
「そういうことだ。普通小説は一人称で書かれている物は勿論だが、三人称で書かれた場合もある特定の登場人物の視点にたっているのがほとんどだ。私だってそういった物を否定はしない。しかし大事な視点が抜けてるんだよ。つまり、読者の視点だ。作者はある意味では事実の列挙だけを手がければいい。そこに登場人物の心理等を読みとるのは、読者のイマジネーションの仕事だ」
「はあ……しかし、それでは味気なさすぎるのでは」
「なんだと」喜三郎は目を剥いた。
「いいか、小説とはもともとデジタルな物なのだよ。どんな小説でも結局は活字の組み合わせにすぎん。絵画や音楽のように同じ人が同じことを二度やっても二度と同じ物はできない、というのとは訳が違うのだ。そのデジタルな物に情感の肉付けをすることこそが小説を読むことの楽しみであり、醍醐味だと思わないか。それを作者が読者から奪ってはいかんのだよ」
「はあ」
 弥三郎としては別に納得しているわけではないのだが、ともあれこの原稿が雑誌に載ればそれでいいのだ。
 かくして『落日の北品川』の連載は始まった。
 そして足掛け二十年を越える大連載となり、連載二百六十五回をもって堂々完結したのである。
「先生、どうもありがとうございました」
 連載開始当時まだ若々しい青年編集者であった弥三郎が今ではもう「小説志ん朝」の編集長になっている。
「いや、君にも色々世話をかけた。単行本としてまとめる際は、ぜひ君への賛辞をいれねばならんな」
 喜三郎も昔ほどの勢いは抜けている。丸くなった、とでもいうべきだろうか。
「で、その単行本の件なのですが……」
 弥三郎がおずおずときりだした。
「発刊が相当遅れそうなのです。なにしろかなりの分量になりますし……」
「うーん、そうかもな」
「ええ、で雑誌部といたしましても出版部に掛け合っているのですが、向こうは向こうで……つまり……これだけの物を出すとなると、やはりリスクが伴うとかで……」
「ふーん」喜三郎の目が厳しくなった。
「つまり、出ないかも知れない、ということだな」
「いえ、まだそうとは、私どもといたしましても、せっかく先生に連載していただいたわけですから……」
 喜三郎は黙ってしまった。ばつの悪さを繕おうとして弥三郎が言った。
「あの、今度、出版記念パーティがあるんですが、出席していただけますか」
「パーティ?誰の?」
「私のです」
「君が?何を出したんだ?」
「ええ、私が書いた『前回のあらすじ』をまとめて本にすることになりまして」

[完]


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