大型刑事小説

隣の囲い殺人事件

佐野祭


「被害者は杉野森弥三郎。松戸商事に勤務する三十歳の男性です」
 朝の公園は殺人現場と思えぬほど閑散としている。
「凶器はナイフ。背中から一突きにされています」
 敏腕女性刑事梅田手児奈の説明は続く。腕ぐみをしながらあくびをかみ殺しているのは、三本松署の名物警部・松本喜三郎である。
「被害者は市内のアパートに妻と息子の三人暮らしです。現在交友関係を中心に容疑者をあたっていますが、浮かび上がってきたのが鈴木平助、被害者の大学時代の友人です。あと葉賀理恵子、被害者が独身時代つきあっていたことがあります。で、問題なのがこれなんですが」
 手児奈は被害者が倒れていたベンチを指さした。
「被害者が死ぬまぎわに書き残したと思われる文字があるんです」
 喜三郎はベンチをのぞきこんだ。そこには、
『隣の家に囲いが出来たってね』
 と書かれてあった。
「血だな」
 喜三郎が呟いた。
「ええ、血で書かれたものです。いわゆるダイイング・メッセージですね」
「ふむ、実に面白い」
 喜三郎は現場のベンチに無造作に腰掛け、腕ぐみをしたまま考え始めた。手児奈は被害者の前歴について一所懸命話そうとしたが、こうなってしまったら人の話を聞く喜三郎ではない。仕方なしにブランコに腰掛けていると、喜三郎がつぶやいた。
「フィンランドのことわざだったかな」
「は」
「有名な言葉があるだろう。『隣の家に囲いが出来たってね』『へー』って」
「あの、それ小話ですが」
「要はガイシャはその言葉をヒントに犯人の手がかりを残そうとしたんだ。『隣の家に囲いが出来たってね』といえば『へー』。つまり犯人は、鈴木平助だ」
「あの、だったら、単に『へー』と書けばいいのでは」
「犯人に手がかりを残したことを気付かれてはまずいじゃないか。さっそく鈴木平助を取り調べろ」
 取調べが始まった。
「名前は」
「すずき・ひらすけです」
 捜査は振り出しに戻った。
 喜三郎はメモの上に何か書付けては消していたが、ふいに「わかったぞ」と叫んだ。
「どうしました、警部」
「私としたことがうかつだった。あんな誰にもわかる形で犯人の名を書くわけがないじゃないか。手児奈君、これは、暗号だよ」
「暗号、ですか」
「いいかい、ガイシャのメッセージを三文字ごとに読んでみたまえ」
「ええと、『となりのいえにかこいができたってね』ですから、『り・え・こ・で・っ』」
「その通り、犯人は葉賀理恵子だ」
「あの、ですけど、死ぬまぎわの人間がなんで悠長に暗号なんか作ってたんでしょうか」
「必死だったんだ。さっそく葉賀理恵子を取り調べろ」
 取調べが始まった。
「名前は」
「はがり・けいこです」
 捜査は暗礁に乗り上げた。
 手児奈がお茶を喜三郎の机に持って来ると、喜三郎は難しい顔をして考え込んでいる。そっとお茶を置いて帰ろうとすると、喜三郎が「手児奈君」と呟いた。
「我々は重大な考え違いをしていたのではないだろうか」
「と、いいますと」
「あれが犯人を示した物かどうかということだよ。死に直面した人間が一番気にするのが、果して犯人の名前だろうか。そんなことはあるまい。まず真っ先に考えるのは、家族のことじゃないだろうか」
「と、いいますと」
「あれは家族にあてた遺書だ」
「あの、なんで遺書に『隣の家に囲いが出来たってね』なんて書かなきゃなんないんですか」
「まず身近な話題から入ろうとしたんだろう」
「被害者の家はアパートです。隣に囲いなんかありません」
「あるいはこういうことも考えられる。被害者は落語家志望だった。死の直前まで稽古を続け、倒れながらも死ぬまで落語を忘れなかった」
「なんで商社員がいきなり落語家になっちゃうんですか」
「心に秘めたものがあったのかも知れない」
「それにしたって落語家だってこんな古い話もうしませんよ」
「ではこういうのはどうだ。ガイシャは実は秘密組織のメンバーだった。やっとこさ対立組織のアジトを見つけたが、アジトにはいるには合言葉が必要だったので、死ぬ前に組織のメンバーに伝えようとした。『隣の家に囲いが出来たってね』『魚肉ソーセージ』ってな具合いに」
「被害者が秘密組織のメンバーだという話はまったくでてませんが」
「だから秘密組織なんじゃないか」
「だって、こんなふうにはっきり書くちゃったら、合言葉を変えるに決まってるじゃないですか」
「そうか、こういうことも考えられるな。君、この隣の家の囲いというのが何を意味するか分かるか」
「というと」
「囲いといえば壁。壁といえばベルリン。つまり、隣の家というのは日本の隣の朝鮮半島のことで、壁というのは韓国と北朝鮮の間の板門店のことだ。ベルリンの壁は崩れたというのに、朝鮮半島の壁はまだ残っている。ガイシャの言葉はそれを嘆いていたんだ」
「だって、何もいま壁ができた訳じゃないですよ」
 喜三郎は黙り込んで、ゆっくりお茶を飲み干した。手児奈は空になった茶碗を盆にのせて、給湯室に運ぼうとした。そのとき、背中で喜三郎が呟いた。
「もしかしてガイシャは、書きたいから書いたんじゃないだろうか」
 手児奈はそんな馬鹿なといおうとして、盆を置いて考え込んでしまった。この説だけは反論のしようがないのである。
「そうだ。そうに違いない。あれはガイシャの魂の叫びだったんだ。うむ。いやあ、これで事件もやっと解決だ。手児奈君もいろいろご苦労だった。今回はなかなか骨のある事件だったな」
 嬉しそうな喜三郎を見ていると、どうしてもまだ犯人は捕まってないよとは言えない手児奈だった。

[完]


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