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大型大雪小説
ひとり雪合戦
佐野祭

 帰りの電車が駅に着く頃には大雪になっていた。
 松本喜三郎はつるつる滑る人たちを眺めながら、はてどうしようと思った。
 余談だが、よく雪国の人間は東京の人間が多少の雪が降ったくらいであわてふためき雪道をつるつる滑るさまを見て笑う。しかしそこにはおのずから地域差という物があることを忘れてはならない。
 かつてエジプトで有史始まって以来の雪が降ったとき(大雪ではない。「雪」である)、凍死者が続出した。エジプトの有史以来であるからそんじょそこらの有史とは有史が違う。当然ながらエジプト人たちは雪に対する備えなど何もしてなかったのだ(このくだり創作ではないので念のため)。東京の雪を笑う者はエジプトの雪を、凍死していった人々を笑えるのか。笑えるとしたらすごいいやな奴である。
 雪は激しく積もっている。
 傘は役に立たなかった。仕方なく喜三郎はアパートへの道を歩き始めた。
 滑らないように一歩一歩確実に歩くから、いつもの倍はかかっているだろうか。アパートへの中間地点にある月極の駐車場が、いつもなら駅から七分くらいで見えてくるのに十五分は歩いたような気がする。
 急に喜三郎は尿意をもよおした。
 駅で済ませてくればよかったと思ったが、寒さと、家に帰るまでの時間の予測を誤った結果である。仕方がない。喜三郎は駐車場の片隅に陣を構えた。
 いざことに及ばんとしたときにひらめいた。そうだ。雪中の小水とあらば、字を書かねばならぬ。
 しばらく立ちしょんのポーズで何を書くか考えていたが、とりあえず寒いので自分の名前で妥協することにした。このまま考え続けてちんぽこ丸出しで凍死したのでは末代までの恥だ。
「松」の字はだいたいうまくいったが、「本」の最後の横棒を書こうとして思いっきり的をはずし、「本」だか「末」だか「未」だかよくわからないものになってしまった。「本」でこんなに苦労していては「喜」は大丈夫だろうかと心配になった。いや、むしろ簡単な字のほうが形がとりにくいのではなかろうか。しかし、「喜」の字は横棒が多いので下手をするとつぶれてしまう。十分に字の大きさに注意する必要があるとは思ったが、とりあえず書き始めることにした。悩んでいる場合ではない。小便がしたいのだ。
 案の定つぶれてしまった。四角の部分は完全にぐちゃぐちゃになっている。しかし、次は「三」の字だ。これなら大丈夫だ、と思ったがもう小便が出なかった。
 喜三郎はとっても中途半端な気持ちに襲われた。このまま帰るのでは納得がいかない。かといって小便は出ず、何か小便の代わりになるものはないかとあたりを見回した。
 駐車場は一面の雪である。いつもならコンクリートむき出しの地面が、真っ白に覆い尽くされている。
 広く高く積もった雪を見ていると喜三郎は自然の大きさと自分の小ささを感じた。そうだ。名前が途中だなんて小さいことにこだわっていてはいけない。もっとほかにやるべきことがあるはずだ。まず喜三郎はちんぽこをしまうことにした。それにしても小便の代わりってなんだとは思ったが、なにしろ寒さで思考力が低下していたので仕方がない。
 あらためて積もった雪を見ているうちに思いついたことがある。雪合戦だ。雪は人を童心に帰らせるものがある。やはりここは一つ子供のときのように雪合戦をやるべきだ、と思い立ち早速友人の杉野森弥三郎に電話をかけた。
 幸い杉野森は自宅にいた。雪合戦をやろうというと、さんざん罵られたあげく電話を切られてしまった。はて遊び心のわからない奴である、では自分一人だけでもやろうと決意した。

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