大型時間小説

時を告げる町

佐野祭


 インターネットの掲示板で知り合った「手児奈」と名乗る女性に会いに行ったのは、わざわざ会社を休んだ平日のことである。
 都心から出ている私鉄の終着駅から、さらに小さな私鉄に乗り換える。二両しかない車内に車掌のアナウンスが響く。
 眠気もあって最初は何の気なしに聞き過ごしていたが、よく聞くとそのアナウンスは普通と違っている。
「えーただいま十一時二十二分です。……ただいま十一時二十三分です。……ただいま十一時二十四分です。まもなく三本松、三本松です。大烏線はお乗り換えです。間もなく十一時二十五分になります」
 待ち合わせの駅で降り、改札口の前で彼女を待つ。しきりに駅員のアナウンスが入る。
「ただいま十一時四十三分です。今度の狸小路方面は1番線からの発車になります。ご乗車の際はホームと電車の間が一部離れておりますのでお足元にご注意ください。ただいま十一時四十四分です」
 どうやら早く着き過ぎたようだ。十二時にはまだ間がある。私はぼんやりと駅の様子を眺めていた。
 眺めているうちに何かが足りないような気がしてきた。
 駅には常にある何かが。
 しかしそれが何かはわからなかった。
 売店はあるし、伝言板もある。
 小さな鉄道なので自動改札はなかったが、それ以前に何かが足りない気がする。
「喜三郎さんですか」
 呼ぶ声に私はこの小旅行の目的を思い出した。
 目の前に立つ女性を見て、私はほっとした。落ち着いた雰囲気の、感じのいい人だ。
 私がはいと答えると、女性は小さくお辞儀をした。
「はじめまして、手児奈です」
 ご飯でも食べましょうかといって、私たちは駅前の喫茶店に入った。
「ごめんなさい、無理な時間を指定して。休みの日だと子どもたちも家にいるし。会社お休みしたんでしょ」
「いや、会社はいま暇な時期だし」
 彼女の家族構成を少し聞いてみたい気もしたが、それきり彼女の口からは家族の話題はでなかった。
 喫茶店の有線では女性歌手の歌声が流れていた。確かアメリカのR&Bのヒット曲である。なのだが……が……間奏のときに時報が流れるのだ。
 私は彼女に尋ねてみた。なぜここではどこでも時報がかかるのか、と。
 彼女はなぜそんなことを聞くのかという口調で答えた。
「でないと時間がわからないじゃない」
 時計を持ってないのか、と私は尋ねた。
 驚いたのは、彼女が時計という言葉を理解できなかったことである。
「それ、どういう字」
「どういう字って……時を計ると書いて時計」
「だったらジケイじゃないの」
「じゃなくて、それでトケイと読むんだ」
「だってせめてトキケイでしょう。喜三郎さんって変わってるなあ」
 説明するより見せたほうが早い。私は腕時計をはずして彼女に見せた。
 彼女は首をかしげた。どうやら本当に見たことがないようだ。
「棒が三本あって、こんなので時間がわかるの」
「いい、この短い針があるでしょう」
「針って、この棒のこと?」
「この一番上が十二時。で、時計回りに……じゃなくて、右回りに一時二時三時」
「ふーん」
「で、この長い針が右回りに五分十分十五分」
「え、さっきこれは一時っていったじゃない」
「それは短い針の場合で、長い針の場合は五分」
 説明しながら私は意外と理屈っぽい女だなと思った。
「私にはそんなに便利そうには思えないけどなあ」
 そうではなくてと言おうとして気がついた。そうか。さっきの駅になかったのは、時計だったんだ。
「もしかしてこの町には、時計はないの?」
 手児奈は仏頂面をした。
「はじめて見たよ」
 私は時計をしまった。信じられないが、彼女は時計を知らずに育ったのだ。BGMが変わり、間にまた時報が流れた。
「ねえ、絵とか見るの好き?」
 話題が変わって正直ほっとした。私も絵は大好きだ。
「この町ね、結構いい美術館あるんだよ。行ってみない?」
 美術館は緑地公園の一角にあった。私たちが美術館に向かって歩いていると、スピーカーから大音量が流れた。
「こちらは公園管理事務所です。ただいま午後一時半です」
 もしやと恐れていたのだが、さすがに美術館の中まではあのうっとうしい時報は追いかけてはこなかった。私は安心して手児奈と一緒に絵を楽しむことができた。
「私高校のとき美術部だったんだよ」
「へえ、じゃあ絵描いてたの」
「うん、風景画を描くのが大好きだったんだ。あちこち写生旅行に出かけたりして。きれいだったのは安曇野。すっごくよかったよ」
「今は描いてるの」
「ううん、全然。その頃の彼ともね、よくこの美術館来たんだ。でも、ほんとはその人ね、あんまり絵が好きじゃなかったみたいなんだ」
 手児奈は微笑んだ。
「喜三郎さんが絵の好きな人でよかった」
 私たちの前でクロッキーに熱心に見入っていた初老の男性のところに、若い男が歩み寄って何やら耳打ちした。男性はそれを聞くと手児奈のところにやってきた。
 手児奈は男性と二言三言ことばをかわすと、私の顔を見ていった。
「いま二時十八分だって」
 私がとまどっていると、手児奈は軽く私の肩をぶった。
「やあねえ。次の人に伝えないと」
「次の人?」
 後ろを振り返ると品のよさそうなおばあさんがいる。私はとまどいながらも話しかけた。
「ええと、いま、二時十八分だそうです。もう二時十九分になったかもしれませんが」
 おばあさんは深々とお辞儀をした。
「まあほんとにありがとうございます」
「いえまあ、そんな大したことじゃ、いえいえ」
 おばあさんは何度も何度もお辞儀をし、後ろの人に伝えにいった。
「ねえ、なんでこんな伝言しなきゃなんないのさ」
「え? だって、美術館の中で大きな音で時報流せないじゃん」
「いやそうじゃなくて、こういうこといつもやってるの?」
「喜三郎さんのところではどうやっているの」
「そりゃあまあ、みんな自分の時計を見るんだよ」
「それってなんか寂しくない?」
 そう思ったことはないのだが、説明してもわかってもらえるとは思えない。
 しばらくは時報の伝言も回ってこなかった。私は落ち着いて手児奈と一緒に絵を楽しむことができた。
 美術館を後にし、公園の中を歩きながら私は手児奈と話した。
「美術詳しいんだね」
「うん、やっぱ美術部だし。喜三郎さんはクラブは何をやってたの」
「俺は野球部」
「ふーん、じゃあ坊主刈りとかしてたの?」
「一応ね」
「私の高校も野球部結構強かったんだよ。私が高三のとき県大会でベスト8まで行ったんだ。そのときは応援にいったよ。そんなチアリーダーまではやらないけどさ。けど相手がその年の甲子園で優勝した高校でね、コールド負けしちゃって。くやしかったなあ」
 手児奈は屈託のない顔で笑った。
「プロ野球とか見る?」
「ううん」
 彼女は首を振った。
「ほんというとルールよくわかってないんだ。でも、そのときはみんなでそうやって応援するのが楽しくてさ」
「いいなあ。うちの野球部なんて応援なんて誰も来なかったもんな。あの広い神宮球場に五人だぜ、五人」
「かわいそーう。そのとき知り合っていれば応援しにいってあげたのにね」
 手児奈が笑った。
「ねえ、これから……」
 私が話しかけたそのとき、大音量で軍歌が鳴り響いた。
「国民の皆さん。戦後の日教組によるゆがんだ教育のため、いま子どもたちが凶悪犯罪に走っています。現在十五時二十五分です。少年法を改正し、教育勅語を復活しましょう。十五時二十六分であります」
 軍歌が遠ざかっていった。
「これから、どこでもいいから時報の聞こえないところ行かないか」
 もうちょっと気が利いたことをいうつもりだったが、すっかりそんなことはどこかに消し飛んでしまった。
「じゃあ……」手児奈はしばらく間を置いた後口を開いた。
「うちに来る?」

 手児奈の家は駅からしばらく歩いた新興住宅地にあった。
「おじゃまするのに手ぶらでごめんね」
と私が言うと、手児奈は笑って答えた。
「そんなの変よ」
 言われて私も苦笑いした。そういう間柄ではなかった。
「あ、これ手児奈さんのパソコンだね」
「うん、といってもインターネットとメールしか使ってないんだけど」
 メールもインターネットの一部なんだけどな、と思いつつ私はマウスを軽く動かした。
 スクリーンセーバーがはずれて、壁紙が現れた。
 壁紙の中には、高校生と思われる女の子が数人写っていた。後列左端が彼女であることはすぐわかった。
 私がパソコンをいじっていると、手児奈が後ろから声をかけた。
「見られて困るものなんか入ってませんからねーだ。紅茶でいい?」
 ああと返事をして私は席についた。
「なんかまだ、頭の中で時報がなってる気がする」
 手児奈の入れてくれた紅茶を飲みながら私がそういうと、手児奈は答えた。
「大丈夫、ここではそういうのは聞こえないから」
 手児奈は砂糖を混ぜながら続けた。
「いつもここに一人でいるとね、時間がたつのがわからないんだ」
「不便じゃない」
「だって、一人のときは時間なんて必要ないじゃん」
 手児奈は紅茶からスプーンを取り出した。
「時間ってのは他の人と共通で同じものを使ってるから意味あるの。でしょ」
 そうかなあ、一人でも時間が必要なときはあるんじゃないかなあと私はあれこれ反例を考えていた。例えば、カップラーメンを作るときがそうである。と思ったが、ばかばかしくなって言葉にするのはやめた。
「それに、町に出ればいやでも時間はわかるもん」
「……いやなの?」
「仕方ないと思うけど」
 手児奈は紅茶を口にした。
「やっぱりときどきうっとうしくなる。時間がたってるのなんて、言われなくてもわかってるわよ」
 手児奈の目は私のほうを向いていた。
 が、手児奈が見ていたのは私ではなかった。
 もっと遠い何かだった。
 私は妙な居心地の悪さを感じていた。はるばるこんなところまでやってきたのは下心がなかったとはいわない。でも、どうもそういう気にはなれなかった。
 ベルの音に私は我に返った。
「電話鳴ってるよ」
「ああ……ちょっとごめんね」
 手児奈はコードレスの受話器を取り上げた。
「もしもし。あ、満里奈? 今ゆうちゃんちなのね。わかった。あなた今日ちゃんと先生にノート渡したの。ならいいけど。あんまり遅くならないようにね。うん。あ……そう。じゃ」
 手児奈は受話器を持ったままつぶやいた。
「いま四時三十五分、だって」
 私は腰を上げた。
「じゃあ、僕はそろそろ」
 手児奈はうなづいた。
「今日はありがとう」
 こちらこそ、と答えて私は立ち上がった。
 今そこにいる彼女と、パソコンの中の彼女と、二人の彼女が目に入る。
 そのパソコンには、時刻表示がない。

[完]


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