大型定義小説

猫のひたい

佐野祭


 横綱審議委員会は佳境に入っていた。
「では次の議案です」議長の松本喜三郎が言った。「よく猫の額ほど狭い、という言い方がありますが、猫の額というのはどこからどこまでなんだというのが明確ではありません」
「いけませんね」杉野森弥三郎が答える。
「この席で正確なところを出さねばならないということで、皆さんにお尋ねしたいわけです」
「普通、人間で言ったら額っていったらどこの部分ですかね」梅田手児奈が皆に問いかける。
「やはり、眉毛から上の部分でしょう」杉野森が答える。
「猫の眉毛」
 議場は重苦しい雰囲気に包まれた。
「猫の眉毛は……」杉野森が口を開いた。「やはり目の上にあるのではないでしょうか。ただ一面毛に覆われているからわからないだけで」
「猫には眉毛はないのでは」手児奈が反論した。「人間の眉毛自体が目を保護する、という意味がある以上もともと毛に覆われている猫には必要ない器官では」
「いや、それを言ってしまえば人間にもさほど必要な器官というわけではありません」
「あのですね」松本議長が口をはさんだ。「猫の眉毛の有無はともかく、どちらにしろ外から判別できないのでは、横綱審議委員会として額の範囲の定義に使えません」
「うーむ」二人はおし黙った。
 先に口を開いたのは手児奈だった。
「どうでしょう、眉毛が定義に使えない以上、目より上を額ということにしたら。もともと人間についての定義を猫に当てはめることに無理があるわけですし」
「ではまぶたも額ですか? それはちょっと無茶ですよ」杉野森が反論した。
「それはこの際割り切るべきだと思います」
「いや、割り切るといってもおのずから程度と言うものがあるわけで、まぶたを額と言うのはそれは無理があります」
「どうでしょう」松本議長が提案した。「目の上一センチからを額にするということにしては」
「しかし子猫もいればデブ猫もいます」杉野森が異を唱えた。「一概にその基準が当てはまるかどうか」
「私は議長の意見に賛成です」手児奈が言った。「猫に個体差があるにせよその範囲であれば少なくともまぶたは入りませんし、十分実用的な範囲であると考えます」
「しかし横綱審議委員会としてですね、実用的かどうかを決定の軸とするのはいかがなものか。やはり我々に求められるのは理念じゃないのですか」
「では杉野森さんはこれに代わる対案をお持ちなのですか」
 杉野森は口ごもった。
「まあ皆さんいろいろご意見もあると思いますが、どうでしょうここは一つ、横綱審議委員会の統一見解としては目の上一センチからを額とし、不都合があれば随時見直しをかけるということで」松本議長が言った。
「異議ありません」手児奈が答えた。
「私も結構です」杉野森が不承不承に言った。
「で、額の下限はそういうことで、額の上限ですが」松本議長が議事をすすめる。
「人間で言うとどこですかね」手児奈が尋ねた。
「やはり、生え際でしょう」杉野森が答える。
「猫の生え際」
 議場は重苦しい雰囲気に包まれた。
「生え際は……ないですよね」手児奈がつぶやいた。
「そう……ですね」杉野森が答えた。
 議場は再び重苦しい雰囲気に包まれた。
 沈黙を破ったのは手児奈だった。
「やはり、まず、ほんとに人間の場合も額の上限は生え際なのか、ということから見直さなければならないと思うんですよ」
「でも、それは疑いようのないところなんじゃないかなあ」と答えたのは杉野森である。「だんだん後退してきた人に対して、『おまえ、額が広くなってきたなあ』とかよく言うじゃないですか」
「でも例えば、こんなところに個人名を出してなんですけど、横山ノック知事いらっしゃいますよね。あの方の生え際と言ったら頭の後ろですけれど、頭のてっぺんを額とはいいませんよね」
「それはそうですが」
「ですからね、何か生え際とは別に額の上限の定義があるんじゃないかと思うんですよ」
「それは何なんですか」
「それは……」
 手児奈は沈黙してしまった。
 杉野森は腕組みしている。松本議長はしきりに資料の山をひっくり返している。
「思うんですけど……」口を開いたのは手児奈だった。
「はい」
「本当に猫には額があるんでしょうか」
 杉野森は手児奈の顔を見た。松本議長も資料をめくる手を止めて手児奈を見た。
「これだけ定義を考えても見つからないということは、猫に額があるというのは気のせいで、ほんとは猫には額がないんじゃないでしょうか」
「いや、そんなことはない。猫には額があります」杉野森が言った。「例えばこの目と目の間の上の部分、ここは明らかに猫の額です。ところがこの耳と耳の間、ここは明らかに猫の額ではない。ではここは猫の額か? ここはどうか? と一つ一つつぶして行けば、おのずと答えははっきりすると思うのです。横綱審議委員会としては早急に結論を出さなければならない。ところで」杉野森は資料をめくっている松本議長に話しかけた。「なんで横綱審議委員会が猫の額の範囲を決めねばならないんですか」
「しょうがないでしょ。あ、あったあった」松本議長の手はとある資料で止まっていた。「ここに江戸時代の蘭方医藤崎良軒が書いた『額と頭の見分け方』という本があります」
「そのまんまじゃないですか」
「えーっと、目を大きく見開き眉毛を上に持ち上げるべし。そのとき皺がよる部分が額、よらない部分が頭なり」
「なるほど」三人は額に皺をよせてお互いの顔を見比べた。
「じゃあ、猫でも同じことですね」手児奈がうなずいた。
「猫の皺」
 議場は重苦しい雰囲気に包まれた。
「思うんですけどね」杉野森が言った。「私、猫には額がないような気がしてきました」
「でしょ? そうなんですよ、やっぱり」手児奈が相槌をうった。
「私もそう思います」松本議長が言った。「では、猫には額がないということで、今月の横綱審議委員会を終わりたいと思います。どうもありがとうございました」

[完]


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